<21カ国目:ボスニア・ヘルツェゴビナ>ヨーロッパな街並みに響くアザーン
- 2015/12/04
- 01:10
現在、クロアチア・ザグレブ。ここまで1日ごとに移動をしてきたからね、、、。
洗濯ができません。干しても朝出発までに乾かないからね。
洗濯休憩、連泊します。

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セルビアから夜行バスでやってきたのはサラエボ。ボスニア・ヘルツェゴビナの首都です。
こちらもまた紛争の悲劇がつい最近まで起こっていたところ。
セルビアからやってきたけど、街並みも人の顔も、何一つ違いがわからないのにな、、、。
”民族ってどうやって見分けるの?きっとあなたたちが中国人と日本人の区別がつかないように、私には欧米人の違いがわからないよ。”
まず、苗字で宗教がわかるらしい。そして言葉はイントネーションの違いでわかるらしい。
あとは、見た目、服装などでどこの民族か見分けているらしい。
セルビア語、ボスニア語、クロアチア語、、、国によってキリル文字とラテン文字を使っているところがある。でも発音は、、、ブリティッシュイングリッシュとアメリカンイングリッシュくらいの違いしかないという。
民族紛争。。。日本ももし大陸に属していたらこんな風に隣人が隣人をいがみ合うような事態になっちゃうのかな?
私たちも隣国とトラブルはあってる。でも私たちのそれとはちょっぴり違う気がした。
宿に着いたのは早朝。チェックイン時間までロビーでぐだぐだ。
翌日のモスタル行きのバスチケットを買いに行きがてら、街を散策。
ベオグラードに空爆通りがあれば、サラエボにはスナイパー通りがある。
紛争中、この通りでは動くものがすべて打たれたという。
大きな新しいショッピングモールなどに紛れて、銃弾のあとが残る建物も健在。


この通りの先にあるのが、ホリディイン。紛争当時、多くのマスコミがこのホテルを拠点とし、この惨劇を世界に伝えた。

ふと、昔見たウエルカムトゥサラエボという映画を思い出した。テレビドラマERでコバッチュ先生役の俳優さんが出ていたことしか思い出せないけど。
明るいヨーロッパな街並みなんだけど、いたるところにお墓らしきものが目につく。
紛争時、あまりに多くの犠牲者の保管場所と埋葬場所に困り、1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピックのグランドに安置、埋葬。そこはそのままお墓となった。
なぜが写真が残っていない、、、私、撮ったと思ったんだけどな、、、。
街中にあったモニュメントには今でも花が手向けられている。

犠牲者の名前。みんな亡くなった年は1993年前後。私より若い人もいる。

サラエボがもう一つ歴史の教科書に出てくることといえば、サラエボ事件。
1914年、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝夫妻がサラエボ視察中にボスニア系セルビア人青年によって射殺された。この事件がきっかけで第1次世界大戦が開戦した。

現場となったラテン橋は現在観光スポット。
向かいにある博物館には犯人の着ていた服や実際に射殺に使われた銃が飾られている。


ちょっと怖い皇帝夫妻のマネキン。
一体全体どうしてこんなにもバルカン諸国ではきな臭い事態が続いているの?
ちょっとネットで調べたけど、敵見方が1対1じゃない複雑な構図。
オーストリア=ハンガリー帝国、オスマントルコ帝国、支配下におかれた国が何度も変わっていることもその原因の1つ。
ずっと調べようと思っていて放置しちゃった。明日洗濯しながら勉強しよう!
でも、サラエボ、そんな重たい観光地ばかりではありません。
バシチャルシヤ広場。
16世紀にアラブのスーク(市場)をモデルに設計された商業地区。だからエリア内にはモスクがあり、久しぶりにアザーンが鳴り響く。
このアザーンがこのエリアの外にも響き渡る。教会の周りにも響き渡るアザーン。

そしてこちらもこちらで荘厳な鐘の音を轟かせます。
わたし、アザーンも教会の鐘の音も大好き!!
バシチャルシヤは雰囲気もどことなくアラブな感じ。

おしゃれなカフェやお土産やさんが並んでいます。
地元の人もこんなに寒いのにテラス席に座ってコーヒーを飲んでいる。
そして、なんと民族衣装屋さん発見!!着させてくれるって!!
今日、夕方からバス移動だからスッピンなんだよな、、、。


こちらは完全にムスリムスタイルですね。ヨーロピアンな要素を全く感じない。
したはスカートではなく、サルエルパンツ。股下60cmくらいあるの。
そしてやっぱり髪は見せちゃいけないようです。

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こちらもまた紛争の悲劇がつい最近まで起こっていたところ。
セルビアからやってきたけど、街並みも人の顔も、何一つ違いがわからないのにな、、、。
”民族ってどうやって見分けるの?きっとあなたたちが中国人と日本人の区別がつかないように、私には欧米人の違いがわからないよ。”
まず、苗字で宗教がわかるらしい。そして言葉はイントネーションの違いでわかるらしい。
あとは、見た目、服装などでどこの民族か見分けているらしい。
セルビア語、ボスニア語、クロアチア語、、、国によってキリル文字とラテン文字を使っているところがある。でも発音は、、、ブリティッシュイングリッシュとアメリカンイングリッシュくらいの違いしかないという。
民族紛争。。。日本ももし大陸に属していたらこんな風に隣人が隣人をいがみ合うような事態になっちゃうのかな?
私たちも隣国とトラブルはあってる。でも私たちのそれとはちょっぴり違う気がした。
宿に着いたのは早朝。チェックイン時間までロビーでぐだぐだ。
翌日のモスタル行きのバスチケットを買いに行きがてら、街を散策。
ベオグラードに空爆通りがあれば、サラエボにはスナイパー通りがある。
紛争中、この通りでは動くものがすべて打たれたという。
大きな新しいショッピングモールなどに紛れて、銃弾のあとが残る建物も健在。


この通りの先にあるのが、ホリディイン。紛争当時、多くのマスコミがこのホテルを拠点とし、この惨劇を世界に伝えた。

ふと、昔見たウエルカムトゥサラエボという映画を思い出した。テレビドラマERでコバッチュ先生役の俳優さんが出ていたことしか思い出せないけど。
明るいヨーロッパな街並みなんだけど、いたるところにお墓らしきものが目につく。
紛争時、あまりに多くの犠牲者の保管場所と埋葬場所に困り、1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピックのグランドに安置、埋葬。そこはそのままお墓となった。
なぜが写真が残っていない、、、私、撮ったと思ったんだけどな、、、。
街中にあったモニュメントには今でも花が手向けられている。

犠牲者の名前。みんな亡くなった年は1993年前後。私より若い人もいる。

サラエボがもう一つ歴史の教科書に出てくることといえば、サラエボ事件。
1914年、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝夫妻がサラエボ視察中にボスニア系セルビア人青年によって射殺された。この事件がきっかけで第1次世界大戦が開戦した。

現場となったラテン橋は現在観光スポット。
向かいにある博物館には犯人の着ていた服や実際に射殺に使われた銃が飾られている。


ちょっと怖い皇帝夫妻のマネキン。
一体全体どうしてこんなにもバルカン諸国ではきな臭い事態が続いているの?
ちょっとネットで調べたけど、敵見方が1対1じゃない複雑な構図。
オーストリア=ハンガリー帝国、オスマントルコ帝国、支配下におかれた国が何度も変わっていることもその原因の1つ。
ずっと調べようと思っていて放置しちゃった。明日洗濯しながら勉強しよう!
でも、サラエボ、そんな重たい観光地ばかりではありません。
バシチャルシヤ広場。
16世紀にアラブのスーク(市場)をモデルに設計された商業地区。だからエリア内にはモスクがあり、久しぶりにアザーンが鳴り響く。
このアザーンがこのエリアの外にも響き渡る。教会の周りにも響き渡るアザーン。

そしてこちらもこちらで荘厳な鐘の音を轟かせます。
わたし、アザーンも教会の鐘の音も大好き!!
バシチャルシヤは雰囲気もどことなくアラブな感じ。

おしゃれなカフェやお土産やさんが並んでいます。
地元の人もこんなに寒いのにテラス席に座ってコーヒーを飲んでいる。
そして、なんと民族衣装屋さん発見!!着させてくれるって!!
今日、夕方からバス移動だからスッピンなんだよな、、、。


こちらは完全にムスリムスタイルですね。ヨーロピアンな要素を全く感じない。
したはスカートではなく、サルエルパンツ。股下60cmくらいあるの。
そしてやっぱり髪は見せちゃいけないようです。

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