<20カ国目:セルビア>「こんなに平和なのに、子供たちは外で遊ばないんだ、、、」
- 2015/12/03
- 01:29
現在、クロアチア・ドブロブニク。
タイのバンコクで一緒だったアツシ君と再会。
一緒にザグレブに移動します。

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ランキング参加中。上の”世界一周”をクリックしていただけると、私にポイントが入ります。現在26位。
ハンガリーから、セルビア・ベオグラードへ電車で移動。ベオグラートって響きがなんとなく好きで、それだけの理由でやってきちゃいました。
安全面から指定席のチケットを買おうとしたら、”席空いているからお金の無駄だよ。”って窓口のお姉さん。ご親切にありがとう。でもちょっと心配だなぁ、、、。

綺麗で明るい車内。ただ、暖房がか弱い。寒い。
出入国もパスポートを渡してスタンプを押してもらうだけ。
ブダペストから8時間ほどでベオグラードに到着。

もはや読めない、、、ロシア語?キリル文字?

ちょっぴり懐かしい形の年季の入った電車。

朝早いからかなぁ、曇っているからかなぁ。駅前はなんだかどんより重たい雰囲気。
とりあえず、ホステルに荷物を置きに行く。今回も当たりホステル。
東欧諸国、ホステルが安くてクオリティ高いです。
5ユーロの本日の宿はこちら!!


素敵なアパートにホームステイしているような感覚!!
この天井高い感じが好き。

キッチンだってこんなに素敵。こんなお家に住みたい!!!
寒いけど、、、雨だけど、、、町の散策を開始。
まずはじめに、クネズ・ミロシュ通り、通称空爆通りへ。
空爆、、、1999年のコゾボ紛争の際に、NATO軍の攻撃を受け、壊れた建物が残っています。
宿のお姉さんに行き方を聞くと、歩いてわずか5分ほどだという。私の泊まった宿はベオグラードの町の中心街。夜はイルミネーションや夜景が綺麗で、お店もたくさんある、人々の生活の中心地。
そんなところにそんな物騒な建物があるんだろうか?半信半疑で行ってみた。

途中、デモっぽいことをしていて騒がしかったけどさ、町かどには美味しそうなパン屋さんがいっぱい。

近くまで来ているはずなのに壊れている建物は見当たらない、、、て思って歩いていたら、
いきなり見えてきた、、、。

通りを挟んで向こう側にももう1つ。


何て書いてあるのかわからないけど、女性の兵隊さん。
この前の通りは駅前へとつながっている。
これ、札幌で言ったら、駅前を歩いて行ってパルコと4プラが爆撃されているような感じ。
カルチャーチョックや。
これらのビルは、モニュメントとして保存していくらしい。広島の原爆ドームのように。
宿に戻ると、なんと!宿のお兄さんが私に日本のラーメンをくれた。生麺。醤油味!!
日本人の常連さんからもらったらしい。”もう4つ食べたから、あげる。”
やった~~!!!ラーメン、ラーメン!!ネギ買ってきて、久しぶりに醤油ラーメン。
ワカメもくれた(^∇^)。
リビングでは宿泊客が飲んでいた。私も混ぜてもらう。
セルビア流の乾杯、一気に飲み干して熱くhug。その時ばっしばし背中を叩かれる。
そこで知り合ったのはウージ君。セルビア人。仕事でベオグラードに来ていた。
年齢の話になり、幾つか当ててみて?って言われた。
(見た目は35。でも絶対私より年下なんでしょ?)
ってことで ”28歳?”って聞いたら26歳やった( ̄□ ̄;)
いろいろお話ししたけど、彼の人生を私は想像することができない。
彼が幼少時代は紛争真っ只中。今でも記憶は鮮明で、夢に出てくるらしい。
そんな彼が家族と住んでいた家は空爆で吹き飛んだ。
2年間電気のないコンテナで暮らしていた、と。そしてその2年間、学校に通っていない。
通えなかったのではなく、学校自体がなかったらしい。
幸い家族親戚は皆健在。でもそれは本当にラッキーなことで友達のほとんどは親戚の誰かを失っているのだとか。
そんな彼はペラペラの英語を喋ります。そしてめっちゃ面白いジョークいってきます。
彼の専門は歴史の先生。プロフェッサーって言ってたけど、多分日本の教授とはちょっと違いそう。
これからの私の行き先を言うと、詳しく歴史や観光名所について教えてくれる。
”一緒にボスニア・ヘルツェゴビナ行っていろいろ見ながら説明してよ。”って言ったら、
”俺、ボスニア・ヘルツェゴビナ入ったら、打ち殺されちゃう。”
、、、その言葉が重たすぎて、私は返す言葉かない。
彼は、オンシーズンはゲストハウスのスタッフをしている。この先2年間、歴史の教職の採用がないらしい。
”歴史の先生がゲストハウスで働かざるを得ないってだけで、この国の経済状況がわかるでしょ。”
でも彼は、自分の仕事が大好きらしい。
”自分はどこにも行けない。でもホステルにいたらたくさんの人に出会える。自分もちょっとだけ旅行している気分になれるよ。”
彼のパスポートで渡航できる国はとても限られているという。
”一度も移住なんかしたことないのに、3回もパスポートが変わったんだ。”
彼が生まれた頃、彼の国籍はユーゴスラビアだった。それがセルビア・モンテネグロになり、セルビアになった。
飲んでいる間もジョーク言い合ってげっらげら笑ってる。こんなに大変な思いしてきているのに、悲壮感が全然ない。
”楽しむしかないの。お金がなくても、戦争があっても。”
翌日も彼が仕事が終わってから一緒にご飯を食べに行った。
その時彼が言った言葉。
”自分が子供の頃が電気がなかった。だから爆弾が落ちてくるかもしれないけど、スナイパーがいるかもしれないけど、みんなで暗くなるまで外で遊んだよ。今の子供達は、こんなに平和なのに、みんな一緒にいれるのに、ずーっとスマホいじったり、テレビゲームをしているんだ。”
、、、私もう、返す言葉がない。彼が悲観的になるのはそこ?
なんて言ったらいいのかわからないけど、過去の戦争ではなく、明るい未来を見つめている人なんだなって思った。
私はその日の夜行バスでボスニア・ヘルツェゴビナへ。
バス停まで送ってくれた。
残ったお金で水やお菓子を購入、使い切ったら、、、
(((( ;°Д°))))えっっっっ!!トイレ有料??
ウージ君、トイレ代、恵んでください!!(><;)
セルビアでの素敵な出会いに感謝。

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移動が続いていて、更新できずにごめんなさい、、、。
タイのバンコクで一緒だったアツシ君と再会。
一緒にザグレブに移動します。

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ハンガリーから、セルビア・ベオグラードへ電車で移動。ベオグラートって響きがなんとなく好きで、それだけの理由でやってきちゃいました。
安全面から指定席のチケットを買おうとしたら、”席空いているからお金の無駄だよ。”って窓口のお姉さん。ご親切にありがとう。でもちょっと心配だなぁ、、、。

綺麗で明るい車内。ただ、暖房がか弱い。寒い。
出入国もパスポートを渡してスタンプを押してもらうだけ。
ブダペストから8時間ほどでベオグラードに到着。

もはや読めない、、、ロシア語?キリル文字?

ちょっぴり懐かしい形の年季の入った電車。

朝早いからかなぁ、曇っているからかなぁ。駅前はなんだかどんより重たい雰囲気。
とりあえず、ホステルに荷物を置きに行く。今回も当たりホステル。
東欧諸国、ホステルが安くてクオリティ高いです。
5ユーロの本日の宿はこちら!!


素敵なアパートにホームステイしているような感覚!!
この天井高い感じが好き。

キッチンだってこんなに素敵。こんなお家に住みたい!!!
寒いけど、、、雨だけど、、、町の散策を開始。
まずはじめに、クネズ・ミロシュ通り、通称空爆通りへ。
空爆、、、1999年のコゾボ紛争の際に、NATO軍の攻撃を受け、壊れた建物が残っています。
宿のお姉さんに行き方を聞くと、歩いてわずか5分ほどだという。私の泊まった宿はベオグラードの町の中心街。夜はイルミネーションや夜景が綺麗で、お店もたくさんある、人々の生活の中心地。
そんなところにそんな物騒な建物があるんだろうか?半信半疑で行ってみた。

途中、デモっぽいことをしていて騒がしかったけどさ、町かどには美味しそうなパン屋さんがいっぱい。

近くまで来ているはずなのに壊れている建物は見当たらない、、、て思って歩いていたら、
いきなり見えてきた、、、。

通りを挟んで向こう側にももう1つ。


何て書いてあるのかわからないけど、女性の兵隊さん。
この前の通りは駅前へとつながっている。
これ、札幌で言ったら、駅前を歩いて行ってパルコと4プラが爆撃されているような感じ。
カルチャーチョックや。
これらのビルは、モニュメントとして保存していくらしい。広島の原爆ドームのように。
宿に戻ると、なんと!宿のお兄さんが私に日本のラーメンをくれた。生麺。醤油味!!
日本人の常連さんからもらったらしい。”もう4つ食べたから、あげる。”
やった~~!!!ラーメン、ラーメン!!ネギ買ってきて、久しぶりに醤油ラーメン。
ワカメもくれた(^∇^)。
リビングでは宿泊客が飲んでいた。私も混ぜてもらう。
セルビア流の乾杯、一気に飲み干して熱くhug。その時ばっしばし背中を叩かれる。
そこで知り合ったのはウージ君。セルビア人。仕事でベオグラードに来ていた。
年齢の話になり、幾つか当ててみて?って言われた。
(見た目は35。でも絶対私より年下なんでしょ?)
ってことで ”28歳?”って聞いたら26歳やった( ̄□ ̄;)
いろいろお話ししたけど、彼の人生を私は想像することができない。
彼が幼少時代は紛争真っ只中。今でも記憶は鮮明で、夢に出てくるらしい。
そんな彼が家族と住んでいた家は空爆で吹き飛んだ。
2年間電気のないコンテナで暮らしていた、と。そしてその2年間、学校に通っていない。
通えなかったのではなく、学校自体がなかったらしい。
幸い家族親戚は皆健在。でもそれは本当にラッキーなことで友達のほとんどは親戚の誰かを失っているのだとか。
そんな彼はペラペラの英語を喋ります。そしてめっちゃ面白いジョークいってきます。
彼の専門は歴史の先生。プロフェッサーって言ってたけど、多分日本の教授とはちょっと違いそう。
これからの私の行き先を言うと、詳しく歴史や観光名所について教えてくれる。
”一緒にボスニア・ヘルツェゴビナ行っていろいろ見ながら説明してよ。”って言ったら、
”俺、ボスニア・ヘルツェゴビナ入ったら、打ち殺されちゃう。”
、、、その言葉が重たすぎて、私は返す言葉かない。
彼は、オンシーズンはゲストハウスのスタッフをしている。この先2年間、歴史の教職の採用がないらしい。
”歴史の先生がゲストハウスで働かざるを得ないってだけで、この国の経済状況がわかるでしょ。”
でも彼は、自分の仕事が大好きらしい。
”自分はどこにも行けない。でもホステルにいたらたくさんの人に出会える。自分もちょっとだけ旅行している気分になれるよ。”
彼のパスポートで渡航できる国はとても限られているという。
”一度も移住なんかしたことないのに、3回もパスポートが変わったんだ。”
彼が生まれた頃、彼の国籍はユーゴスラビアだった。それがセルビア・モンテネグロになり、セルビアになった。
飲んでいる間もジョーク言い合ってげっらげら笑ってる。こんなに大変な思いしてきているのに、悲壮感が全然ない。
”楽しむしかないの。お金がなくても、戦争があっても。”
翌日も彼が仕事が終わってから一緒にご飯を食べに行った。
その時彼が言った言葉。
”自分が子供の頃が電気がなかった。だから爆弾が落ちてくるかもしれないけど、スナイパーがいるかもしれないけど、みんなで暗くなるまで外で遊んだよ。今の子供達は、こんなに平和なのに、みんな一緒にいれるのに、ずーっとスマホいじったり、テレビゲームをしているんだ。”
、、、私もう、返す言葉がない。彼が悲観的になるのはそこ?
なんて言ったらいいのかわからないけど、過去の戦争ではなく、明るい未来を見つめている人なんだなって思った。
私はその日の夜行バスでボスニア・ヘルツェゴビナへ。
バス停まで送ってくれた。
残ったお金で水やお菓子を購入、使い切ったら、、、
(((( ;°Д°))))えっっっっ!!トイレ有料??
ウージ君、トイレ代、恵んでください!!(><;)
セルビアでの素敵な出会いに感謝。

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