<81カ国目;ブラジル>ブラジルでも、日系移民の壮絶人生
- 2018/03/25
- 17:45
こんにちは。
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サンパウロで行きたかった場所。
日本人街、リベルダージュ。


信号が鳥居。。。かわいい。

ここ、リベルダージュは世界最大規模の日本人街。
実にブラジルには、総人口の0.8パーセントに及ぶ、約150万人の日系人が住んでいる。
そしてそのうちの100万人がここ、サンパウロ・リベルダージュ周辺に暮らしているという。

ペレがゲイシャを口説きよる、、、。
ちょっとばかり日本っぽい街並みに並ぶ日本食スーパーや日本食レストラン。
(正直、中国系や、韓国系の人やお店も多かったけど、、、)

和菓子に、

あんまり美味しくなさそうだけど、日本チックなお弁当。

行列ができるラーメン屋さん。

試しに食べて見たけど、、、味は、まあ、外国で食べるラーメン。
ブラジル社会でも認められた日系移民の人々の活躍と貢献。
リベルダージュには、そんな彼らの歴史を紹介するミュージアムがあります。
ブラジルへの日本人移住が始まったのは、1908年。
移民第1号は、笠戸丸で渡った781人。

なぜブラジルは移民を必要としていたのか?
それは、1888年に奴隷制度が廃止されたから。
アフリカからの奴隷がいなくなり、労働力が不足。
その労働力不足を補うために、ヨーロッパ諸国や日本から移民を受け入れることになる。
一方日本も、それまで最大の移住先だったアメリカで日本人の排斥運動が起こったり、移住人数を制限するようになったため、新しい移住地が必要となり、その移住先としてブラジルが選ばれた。
日本で移民を募集するときには、高待遇が謳われていたが、実際に移住してみると実情は奴隷生活。
ストライキや夜逃げするものが少なくなかった。
多くの日系移民がコーヒー農園での肉体労働を強いられる。
農園から逃げ出して日本人はお金を出し合い、自分たちで農場の経営に乗り出す。
農業を始めて数年は収入の見込みがない。
移住者たちは自分たちで建てた掘っ建て小屋で生活した。

当時の日系移民の住居のレプリカも展示されている。

貧しいときに食べていた野草。
自分たちで経営した農場でも当初はコーヒーの栽培をした。
しかしコーヒー価格の暴落を機に、様々な作物の栽培を始めるようになる。
今日、ブラジルで栽培されている作物の多くは日本人が持ち込み、品種改良を重ねて栽培に成功したものたちである。
また、日系の移民が来る前まで、収穫量を増やすには、農地を増やすことしか手段がなかったブラジル。
しかし、日本人は、同じ農地面積で収穫量を増やす方法を考え出した。
日系人がブラジルの農業の発展への貢献はとても大きい。
戦前までに約17万人の日本人が移住。
しかし、第2次世界大戦中には、国交が断切され、日系人社会は迫害を受けることになる。
日本語の教育の禁止、公共の場で日本語を話すことを禁じられ、日本語での出版も禁止される。
不当に土地を没収されたり、未開拓地に強制移動させられたりした。
しかし、このことがブラジル社会への同化を促したのも事実である。
戦後、日本の敗戦を信じられない日系人と、敗戦を信じた日系人の間で日系人同士の衝突が起こりたくさんの犠牲者が出たこともあった。
やがて国交が回復し移民事業も再開され、戦後移民は約13万人にのぼる。
当初の移民の多くは数年間働き、お金を貯めて日本に帰るつもりだった。
しかし、やがてそれがはるか遠い夢であることを悟って行く。
そこで多くの移住者は、子孫に教育を受けさせることに非常に熱心になった。
自分たちは果たせなかったが、子供たちが日本に帰ることができたときに困らないようにと、早い段階から日本語学校を作った。
同時に、ブラジル社会に溶け込むべく、ポルトガル語の教育にも熱心になる。
子供達は現地の学校と日本語学校、2つの学校に通った。
そして、貧しい生活の中でも、子供たちの教育への投資は惜しまなかったという。
教育を受けていれば、自分たちのような苦労をしなくて済む。
専門職があれば、より良い暮らしができる。
こうして、高度な教育を受けた日系人の子孫たちが今現在、ブラジルの各分野で活躍して確固たる地位を築いている。
日本の真裏にあるもうひとつの日本の歴史。
いつまでも語り継がれて行きますように。

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実にブラジルには、総人口の0.8パーセントに及ぶ、約150万人の日系人が住んでいる。
そしてそのうちの100万人がここ、サンパウロ・リベルダージュ周辺に暮らしているという。

ペレがゲイシャを口説きよる、、、。
ちょっとばかり日本っぽい街並みに並ぶ日本食スーパーや日本食レストラン。
(正直、中国系や、韓国系の人やお店も多かったけど、、、)

和菓子に、

あんまり美味しくなさそうだけど、日本チックなお弁当。

行列ができるラーメン屋さん。

試しに食べて見たけど、、、味は、まあ、外国で食べるラーメン。
ブラジル社会でも認められた日系移民の人々の活躍と貢献。
リベルダージュには、そんな彼らの歴史を紹介するミュージアムがあります。
ブラジルへの日本人移住が始まったのは、1908年。
移民第1号は、笠戸丸で渡った781人。

なぜブラジルは移民を必要としていたのか?
それは、1888年に奴隷制度が廃止されたから。
アフリカからの奴隷がいなくなり、労働力が不足。
その労働力不足を補うために、ヨーロッパ諸国や日本から移民を受け入れることになる。
一方日本も、それまで最大の移住先だったアメリカで日本人の排斥運動が起こったり、移住人数を制限するようになったため、新しい移住地が必要となり、その移住先としてブラジルが選ばれた。
日本で移民を募集するときには、高待遇が謳われていたが、実際に移住してみると実情は奴隷生活。
ストライキや夜逃げするものが少なくなかった。
多くの日系移民がコーヒー農園での肉体労働を強いられる。
農園から逃げ出して日本人はお金を出し合い、自分たちで農場の経営に乗り出す。
農業を始めて数年は収入の見込みがない。
移住者たちは自分たちで建てた掘っ建て小屋で生活した。

当時の日系移民の住居のレプリカも展示されている。

貧しいときに食べていた野草。
自分たちで経営した農場でも当初はコーヒーの栽培をした。
しかしコーヒー価格の暴落を機に、様々な作物の栽培を始めるようになる。
今日、ブラジルで栽培されている作物の多くは日本人が持ち込み、品種改良を重ねて栽培に成功したものたちである。
また、日系の移民が来る前まで、収穫量を増やすには、農地を増やすことしか手段がなかったブラジル。
しかし、日本人は、同じ農地面積で収穫量を増やす方法を考え出した。
日系人がブラジルの農業の発展への貢献はとても大きい。
戦前までに約17万人の日本人が移住。
しかし、第2次世界大戦中には、国交が断切され、日系人社会は迫害を受けることになる。
日本語の教育の禁止、公共の場で日本語を話すことを禁じられ、日本語での出版も禁止される。
不当に土地を没収されたり、未開拓地に強制移動させられたりした。
しかし、このことがブラジル社会への同化を促したのも事実である。
戦後、日本の敗戦を信じられない日系人と、敗戦を信じた日系人の間で日系人同士の衝突が起こりたくさんの犠牲者が出たこともあった。
やがて国交が回復し移民事業も再開され、戦後移民は約13万人にのぼる。
当初の移民の多くは数年間働き、お金を貯めて日本に帰るつもりだった。
しかし、やがてそれがはるか遠い夢であることを悟って行く。
そこで多くの移住者は、子孫に教育を受けさせることに非常に熱心になった。
自分たちは果たせなかったが、子供たちが日本に帰ることができたときに困らないようにと、早い段階から日本語学校を作った。
同時に、ブラジル社会に溶け込むべく、ポルトガル語の教育にも熱心になる。
子供達は現地の学校と日本語学校、2つの学校に通った。
そして、貧しい生活の中でも、子供たちの教育への投資は惜しまなかったという。
教育を受けていれば、自分たちのような苦労をしなくて済む。
専門職があれば、より良い暮らしができる。
こうして、高度な教育を受けた日系人の子孫たちが今現在、ブラジルの各分野で活躍して確固たる地位を築いている。
日本の真裏にあるもうひとつの日本の歴史。
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