<80カ国目;パラグアイ>地球の反対側で響く君が代に思わず涙
- 2018/03/17
- 18:44
こんにちは。
現在、ブラジル最後の街・マナウス。
ポルトベリョからここマナウスまでのバス移動、この旅で一番の大冒険になりました。
24時間のはずが、72時間、丸2日多くかかりました。
マジで、アドベンチャー!!
いやー、時系列無視して思い出が鮮明なうちにレポートしたいくらいですが、、、
頑張ってリアルタイムに追いつきますので、もうしばらくお待ちを。

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世界一周ブログランキングに参加中。
1日1クリックで応援宜しくお願いします。
旅終了まで、あと2ヶ月。
パラグアイ、日本人移住者が多く暮らす、イグアス居住地の民宿小林での沈没生活。
というのも、ブラジルのカーニバルをオランダ留学時代に一緒だったブラジル人の友達と過ごすことになった。
16年ぶりの再会。
当時ちょっと好きだった人との再会、なんかドキドキするね。
友達もカーニバルで実家に帰るというので、彼の実家にお世話になることになったんだけど、今、彼とご両親は別々の街に暮らしている。
”実家はいつでもウエルカムだから、先に行ってていいよ” そう言ってくれたけど、
会ったことがない友達のご両親と友達抜きで会うってやっぱりちょっと畏れ多くって、
友達が実家に戻る同じ日に、私もブラジルに向かうことにした。
それまでここ、民宿小林で過ごすことに。
ダース買いしたビールを昼間っから飲む。
ブログ書いたり、昼寝したり、お互いの旅エピソード暴露会したり、

みんなでトランプしたり。
貧乏旅人、100円を賭けたトランプに必死になります。
結果、おいら500円負けたよ。
あああああぁぁぁぁーーーー、痛い出費じゃ。笑
共有スペースにある本棚には、パラグアイに移住した日本人の歴史やエッセイがたくさん並んでいた。
時間あるから、いくつか読んだよ。
移住者へのインタビューが収められた本。
どのページを見ても、本当に壮絶な人生。
(すみません、すぐにブログに書かないからですね。
本を読んで色々感じたことがあって、これはブログに書こうって思ったがことがたくさんあったのに、
今、頑張ってブログに書こうとしてもちっとも思い出せないんです。
そして、堕落しすぎてた故、ネタ帳にメモを取ることすらしていないという、、、。
本当にしょうもない内容ですみません。)
日本人がパラグアイに移住を始めたのは、1930年代後半。
農業従事のために、約130世帯が移住した。

それ以前から、多くの日本人がアメリカやブラジルに移住していたが、日本人を排斥する流れが起こり、
それらの国への移住が制限されるようになる。
その国々の代わりとして移住幸先となったのがパラグアイ。
戦時中には、迫害にあったり、日本語教育が禁止されたりと多くの困難に直面するが、
1950年代、戦後の経済不安定から再び移住事業が再開される。
1959年から1989年までに、パラグアイ政府は8万5千人の日本人移住者の受け入れを表明したが、1960年代になり日本の経済が回復し、実際に移住したのは7000人ほどだった。
その後、移住事業は終了した。
先に移住した人々によってコミュニティが形成され、現地の人々にも受け入れられ、
新しい移住者たちがやって来ても、すぐに安定した生活ができるような体制が出来上がった矢先、移住事業が終わってしまったという皮肉。

地球の裏側に夢を抱いて約2ヶ月の船旅の末にやって来た日本人。
移住者はもともと日本でも農業をやっていた人ばかりではない。中には医師もいた。
肥沃な農地が与えられると言われてやって来たものの、与えられた土地は、原生林。
一から開拓しなければならない。
不当に過酷な労働を強いられ、お給料をほどんどもらえなかった。
パラグアイの土に合う農作物を探し育ててみる。
需要と供給のバランスも考えなくてはならない。
なかなかうまくいかない。
試行錯誤をくりかえし、今年はなんとか収穫てできそうだ!と作物の成長を見守っていたら、
一夜にしてバッタの大群に全てを食い荒らされてしまう。
そしてなんと、日本人居住地に電気が引かれたのは、1970年代になってから。
それまでは、オイルランプしかなかったっていうんだから驚き。
日本の戦前以前の生活をわずか35年前までしていたの?!?!?

お風呂は、肉体労働の後の癒し。その五右衛門風呂は、移住時に荷物をいれて来たドラム缶。

※写真は、パラグアイ移民の歴史について展示している、イグアス日本「匠」センターより。

読んでいるだけで、どよーんとしてくる。
なんでこうも次から次へと困難が押し寄せて来るの?
民宿小林のお父さんとお母さんは戦後の移住者。
お父さんは子供の頃にご家族と、お母さんは成人したから単身でパラグアイに渡り、ご結婚された。
お父さんとお母さんの人生も壮絶。
全財産を盗まれたり、夜逃げして来たり、土地を取られてしまったり。
私だったらもうすぐに、日本に帰るね。
だけどお父さんもお母さんも日本に帰ろうと考えたことはないみたい。
もちろん、日本に帰った移住者もいる。
農業に限界を感じ、他の職種に手を出す移住者もいたが”農業従事者”としての移住だからと、規制されたり、
成功したら成功したで、迫害を受けたり。
だけど、彼らの努力は報われ、パラグアイの農業が発展したのは日系移住者のおかげだと言われている。
現在、パラグアイは世界有数の大豆輸出国。
これは、日本人が栽培を始めたから。
日本人移住者の国籍は日本。彼らはパラグアイに住んでいるけど、日本のパスポートを持つ日本人。
(それゆえの問題もたくさんあるみたい。参政権とか、税金とか、社会保障とか。。。)
同じ日本人が地球の反対側で一国の農業を発展させて今でも尊敬されながら活躍してるって嬉しいね。
そんなイグアス居住区にある日本語学校の入学式があった。
お母さんにお願いしてちょっと見学させてもらった。

生徒たちは、現地の学校の他に、この日本語学校に通っている。
全く日本人の顔の子もいれば、多分ハーフなんだろうなって感じの子。
そしてさらに、日本の血が一切入っていない現地の子供たちも日本語が話せると選択肢が広がるってことで通っているというのだから驚き。
そんな入学式で歌われた君が代。

ちょっと思わず涙が出そうになった。
日本の反対側でも、日本人としての心を忘れずに生きている人々。
そんな日本人を受け入れて、認めてくれているパラグアイの人々。
そんな2つの国の未来を担う子供たち。
彼らが歌う君が代。
いままで聞いた君が代の中で一番心に響いた。

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現在、ブラジル最後の街・マナウス。
ポルトベリョからここマナウスまでのバス移動、この旅で一番の大冒険になりました。
24時間のはずが、72時間、丸2日多くかかりました。
マジで、アドベンチャー!!
いやー、時系列無視して思い出が鮮明なうちにレポートしたいくらいですが、、、
頑張ってリアルタイムに追いつきますので、もうしばらくお待ちを。

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旅終了まで、あと2ヶ月。
パラグアイ、日本人移住者が多く暮らす、イグアス居住地の民宿小林での沈没生活。
というのも、ブラジルのカーニバルをオランダ留学時代に一緒だったブラジル人の友達と過ごすことになった。
16年ぶりの再会。
当時ちょっと好きだった人との再会、なんかドキドキするね。
友達もカーニバルで実家に帰るというので、彼の実家にお世話になることになったんだけど、今、彼とご両親は別々の街に暮らしている。
”実家はいつでもウエルカムだから、先に行ってていいよ” そう言ってくれたけど、
会ったことがない友達のご両親と友達抜きで会うってやっぱりちょっと畏れ多くって、
友達が実家に戻る同じ日に、私もブラジルに向かうことにした。
それまでここ、民宿小林で過ごすことに。
ダース買いしたビールを昼間っから飲む。
ブログ書いたり、昼寝したり、お互いの旅エピソード暴露会したり、

みんなでトランプしたり。
貧乏旅人、100円を賭けたトランプに必死になります。
結果、おいら500円負けたよ。
あああああぁぁぁぁーーーー、痛い出費じゃ。笑
共有スペースにある本棚には、パラグアイに移住した日本人の歴史やエッセイがたくさん並んでいた。
時間あるから、いくつか読んだよ。
移住者へのインタビューが収められた本。
どのページを見ても、本当に壮絶な人生。
(すみません、すぐにブログに書かないからですね。
本を読んで色々感じたことがあって、これはブログに書こうって思ったがことがたくさんあったのに、
今、頑張ってブログに書こうとしてもちっとも思い出せないんです。
そして、堕落しすぎてた故、ネタ帳にメモを取ることすらしていないという、、、。
本当にしょうもない内容ですみません。)
日本人がパラグアイに移住を始めたのは、1930年代後半。
農業従事のために、約130世帯が移住した。

それ以前から、多くの日本人がアメリカやブラジルに移住していたが、日本人を排斥する流れが起こり、
それらの国への移住が制限されるようになる。
その国々の代わりとして移住幸先となったのがパラグアイ。
戦時中には、迫害にあったり、日本語教育が禁止されたりと多くの困難に直面するが、
1950年代、戦後の経済不安定から再び移住事業が再開される。
1959年から1989年までに、パラグアイ政府は8万5千人の日本人移住者の受け入れを表明したが、1960年代になり日本の経済が回復し、実際に移住したのは7000人ほどだった。
その後、移住事業は終了した。
先に移住した人々によってコミュニティが形成され、現地の人々にも受け入れられ、
新しい移住者たちがやって来ても、すぐに安定した生活ができるような体制が出来上がった矢先、移住事業が終わってしまったという皮肉。

地球の裏側に夢を抱いて約2ヶ月の船旅の末にやって来た日本人。
移住者はもともと日本でも農業をやっていた人ばかりではない。中には医師もいた。
肥沃な農地が与えられると言われてやって来たものの、与えられた土地は、原生林。
一から開拓しなければならない。
不当に過酷な労働を強いられ、お給料をほどんどもらえなかった。
パラグアイの土に合う農作物を探し育ててみる。
需要と供給のバランスも考えなくてはならない。
なかなかうまくいかない。
試行錯誤をくりかえし、今年はなんとか収穫てできそうだ!と作物の成長を見守っていたら、
一夜にしてバッタの大群に全てを食い荒らされてしまう。
そしてなんと、日本人居住地に電気が引かれたのは、1970年代になってから。
それまでは、オイルランプしかなかったっていうんだから驚き。
日本の戦前以前の生活をわずか35年前までしていたの?!?!?

お風呂は、肉体労働の後の癒し。その五右衛門風呂は、移住時に荷物をいれて来たドラム缶。

※写真は、パラグアイ移民の歴史について展示している、イグアス日本「匠」センターより。

読んでいるだけで、どよーんとしてくる。
なんでこうも次から次へと困難が押し寄せて来るの?
民宿小林のお父さんとお母さんは戦後の移住者。
お父さんは子供の頃にご家族と、お母さんは成人したから単身でパラグアイに渡り、ご結婚された。
お父さんとお母さんの人生も壮絶。
全財産を盗まれたり、夜逃げして来たり、土地を取られてしまったり。
私だったらもうすぐに、日本に帰るね。
だけどお父さんもお母さんも日本に帰ろうと考えたことはないみたい。
もちろん、日本に帰った移住者もいる。
農業に限界を感じ、他の職種に手を出す移住者もいたが”農業従事者”としての移住だからと、規制されたり、
成功したら成功したで、迫害を受けたり。
だけど、彼らの努力は報われ、パラグアイの農業が発展したのは日系移住者のおかげだと言われている。
現在、パラグアイは世界有数の大豆輸出国。
これは、日本人が栽培を始めたから。
日本人移住者の国籍は日本。彼らはパラグアイに住んでいるけど、日本のパスポートを持つ日本人。
(それゆえの問題もたくさんあるみたい。参政権とか、税金とか、社会保障とか。。。)
同じ日本人が地球の反対側で一国の農業を発展させて今でも尊敬されながら活躍してるって嬉しいね。
そんなイグアス居住区にある日本語学校の入学式があった。
お母さんにお願いしてちょっと見学させてもらった。

生徒たちは、現地の学校の他に、この日本語学校に通っている。
全く日本人の顔の子もいれば、多分ハーフなんだろうなって感じの子。
そしてさらに、日本の血が一切入っていない現地の子供たちも日本語が話せると選択肢が広がるってことで通っているというのだから驚き。
そんな入学式で歌われた君が代。

ちょっと思わず涙が出そうになった。
日本の反対側でも、日本人としての心を忘れずに生きている人々。
そんな日本人を受け入れて、認めてくれているパラグアイの人々。
そんな2つの国の未来を担う子供たち。
彼らが歌う君が代。
いままで聞いた君が代の中で一番心に響いた。

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