<29カ国目;ポーランド>アウシュビッツ収容所、、、目を背けたい気持ちとの葛藤
- 2016/01/17
- 06:09
現在、ウクライナ・キエフ。
ウクライナの発音って、”ユークレイン”みたいな感じ。
最初何のことかわからなかった。

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ワルシャワからクラクフへ移動。
クラクフにやってきた目的は、アウシュビッツ収容所を見に行くため。
行きたくないけど、行っておかなければならない場所のような気がしていた。
クラクフからアウシュビッツまではバスで1時間半ほど。
オンシーズン中は入場料とガイド料が必要らしいが、オフシーズンの今はガイドなし、入場無料で入れる。

出迎えてくれたのは有名なこの門。”働けば自由になれる”

Bの文字が逆さまなのは、これを作った収容者の小さな抵抗だったと言われている。
この門をくぐり、再びくぐり出て行った人は一体何人いたのだろうか。
アウシュビッツには第1収容所と第2収容所がある。
この有名な門があるのは第1収容所。
私は、この第1収容所を先に見学した。

2階建のバラックがいくつも残されている。この大きさに700人が収容されていた。

壁には一面に亡くなった方々の写真。
でも、写真が撮られたのは政治犯や捕虜など。ユダヤ人はユダヤ人という理由だけで収容され、写真すら残されなかったという。

ベッド1つに収容者2人が寝ていたそう。ベッドがなく藁が敷かれただけの部屋もあった。
写真を撮り忘れたのだが、トイレは洋式の水洗だった。現代のトイレと同じ形。

バラックとバラックの間の通路に”死の壁”。ここで多くの人が公開銃殺された。

敷地を取り囲んだ有刺鉄線には電流が流れていたそうだ。
収容者から没収された物たち。預かるという名目で取り上げられ、そのまま戦時中で物資不足のドイツ市民に配られたらしい。


カバンは別送されるからと名前を書かされた。

一体何足の靴があるのだろう。

新生活のためにと持ち込んだであろう食器類。
ユダヤ人は初め、ユダヤ人のためのユートピアを作ると騙され、、心を弾ませてアウシュビッツへと連れて来られた。

メガネ。
撮影禁止だったが、収容者の毛髪も山のように残されていた。髪の毛は織物を作るための業者に売り飛ばされていた。
命を奪うだけではなく、使える物、お金になる物はすべて使う。
目の前に広がる歴史に言葉が出ない。
そして、シャワーを浴びる、と言われ連れ込まれたガス室。

女子供、労働に適さない者は収容所に着くなり、このガス室に送り込まれた。
収容所が定員オーバーの時には、選別すら行われることなく、新しく電車で送り込まれたユダヤ人がそのままガス室に送り込まれた。
わずか70年ほど前に本当にあった出来事であることが信じられない。
この広大な敷地がただ人を殺すためだけに整備されたということが想像できない。
私が行った日も気温は氷点下。展示があるバラック内部もかなり寒い。
そんな冬の日も収容された人々には青の縞の囚人服しか支給されなかった。
どんだけの寒さの中、過酷な生活と労働を強いられていたのだろう。
食事だってきっと満足なものではない
、、、想像するだけで鳥肌が立つ。
同じ人間がこんなに酷いことを考えついて、100万人以上が命を失う事態になっても惨劇は止まらなかったことに憤りを感じるし、頭の中には疑問しか浮かばない。
私はこの後、第2収容所へ行くつもりだった。
だけど、胸がいっぱいすぎて行くことができなかった。
でも、見なくてはいけないものだと思った。目を背けてはいけないことだと思った。
第2収容所には日を改めて出向くことにした。
、、、第2収容所は、さらに想像を絶するところだった。

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クラクフにやってきた目的は、アウシュビッツ収容所を見に行くため。
行きたくないけど、行っておかなければならない場所のような気がしていた。
クラクフからアウシュビッツまではバスで1時間半ほど。
オンシーズン中は入場料とガイド料が必要らしいが、オフシーズンの今はガイドなし、入場無料で入れる。

出迎えてくれたのは有名なこの門。”働けば自由になれる”

Bの文字が逆さまなのは、これを作った収容者の小さな抵抗だったと言われている。
この門をくぐり、再びくぐり出て行った人は一体何人いたのだろうか。
アウシュビッツには第1収容所と第2収容所がある。
この有名な門があるのは第1収容所。
私は、この第1収容所を先に見学した。

2階建のバラックがいくつも残されている。この大きさに700人が収容されていた。

壁には一面に亡くなった方々の写真。
でも、写真が撮られたのは政治犯や捕虜など。ユダヤ人はユダヤ人という理由だけで収容され、写真すら残されなかったという。

ベッド1つに収容者2人が寝ていたそう。ベッドがなく藁が敷かれただけの部屋もあった。
写真を撮り忘れたのだが、トイレは洋式の水洗だった。現代のトイレと同じ形。

バラックとバラックの間の通路に”死の壁”。ここで多くの人が公開銃殺された。

敷地を取り囲んだ有刺鉄線には電流が流れていたそうだ。
収容者から没収された物たち。預かるという名目で取り上げられ、そのまま戦時中で物資不足のドイツ市民に配られたらしい。


カバンは別送されるからと名前を書かされた。

一体何足の靴があるのだろう。

新生活のためにと持ち込んだであろう食器類。
ユダヤ人は初め、ユダヤ人のためのユートピアを作ると騙され、、心を弾ませてアウシュビッツへと連れて来られた。

メガネ。
撮影禁止だったが、収容者の毛髪も山のように残されていた。髪の毛は織物を作るための業者に売り飛ばされていた。
命を奪うだけではなく、使える物、お金になる物はすべて使う。
目の前に広がる歴史に言葉が出ない。
そして、シャワーを浴びる、と言われ連れ込まれたガス室。

女子供、労働に適さない者は収容所に着くなり、このガス室に送り込まれた。
収容所が定員オーバーの時には、選別すら行われることなく、新しく電車で送り込まれたユダヤ人がそのままガス室に送り込まれた。
わずか70年ほど前に本当にあった出来事であることが信じられない。
この広大な敷地がただ人を殺すためだけに整備されたということが想像できない。
私が行った日も気温は氷点下。展示があるバラック内部もかなり寒い。
そんな冬の日も収容された人々には青の縞の囚人服しか支給されなかった。
どんだけの寒さの中、過酷な生活と労働を強いられていたのだろう。
食事だってきっと満足なものではない
、、、想像するだけで鳥肌が立つ。
同じ人間がこんなに酷いことを考えついて、100万人以上が命を失う事態になっても惨劇は止まらなかったことに憤りを感じるし、頭の中には疑問しか浮かばない。
私はこの後、第2収容所へ行くつもりだった。
だけど、胸がいっぱいすぎて行くことができなかった。
でも、見なくてはいけないものだと思った。目を背けてはいけないことだと思った。
第2収容所には日を改めて出向くことにした。
、、、第2収容所は、さらに想像を絶するところだった。

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